expedition41
「長慶天皇御陵考」①
昭和4年刊の私家本。
研究家の
柏木豊明氏が発行人となっています。
「柏木氏の残した多くの資料が
学習院大学の協力で整理され、
公的な機関で管理されているが非公開」らしいです。
この本には4枚の写真が掲載されていますが、
4枚だけなのが非常に残念。
もっとあるんだろうな~。
見たいな~。
で、登場人物の関係を図にしてみました。
○の各陵墓についての解説がされています。
長慶天皇陵は紹介済みなので写真だけ。
この時代は柵があったようです。
expedition42
「長慶天皇御陵考」②
玉子内親王の墓
「南都留郡福地村字新屋小倉山麓
丸山観音堂の旧趾に在」
長慶天皇の娘。
出家し諸国を巡り、
富士谷に戻って観音堂を建てたそうです。
「皇考皇妣の像を刻し観世音と称し・・・」
とあります。
小倉山の近くに観音堂がありました。
○部分を丸山と言うようです。
本尊は「正観世音菩薩」。
道路を挟んだ向かい側が墓地で、
もともと観音堂は墓地側にあったそうです。
「旧趾に在」とも話が合います。
どれかが玉子内親王の墓?
両親の像を作ったのなら
観音像は2体ありそうですが、1体でした。
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「長慶天皇御陵考」③
説成親王の墓
「南都留郡谷村町の西
勝山城趾八幡社の旧趾に在」
後村上天皇第四皇子。
「勝山城の峰に葬る
後祠を建て正八幡大神と曰ふ」
現在の勝山八幡神社は移動していますが、
山頂にあったようです。
地図の位置関係から言うと
この辺りでしょうか?
ここか、
一段下がった先端部。
勝山八幡神社
勝山山頂→八窪山山頂→現在地と
移動したようです。
八窪山山頂の旧社。
expedition44
「長慶天皇御陵考」④
山口皇子の墓
「一長子塚」または「山口塚」
後に祠を建て「一長子(はつちょうじ)明神」
長慶天皇の息子で早世されたようです。
撮影許可をいただきました。
場所としてはここ(のハズ)ですが、
祠も台も違います。
ご主人曰く
「(南朝の皇子とか)そんないいモンじゃないよ?」
とのこと。
自信ありません。w
expedition45
「長慶天皇御陵考」⑤
皇妃小野局の墓
「南都留郡東桂村夏狩長慶寺に在」
長慶天皇の側室。
「上皇崩御の後尼となり」
「永享10年(1438年)に寂す」
「長慶寺の南の岡に葬る」
長慶庵(臨済宗に改宗し長慶禅寺)の
創建は寛正3年(1462年)だそうです。
「お墓の場所が、
後にできたお寺の南側」と
思っていましたが、
別資料に「長慶寺に於いて寂す」とありました。
無視します。w
長慶禅寺は1度移動しており、
元の場所にはお墓が残っています。
南ですが平地です。
「岡」というと八面神社の辺りでしょうか?
この神社は後醍醐天皇の時代には存在したようです。
僧侶をあえて神社に葬るかは分かりませんが、
仏像らしきものはありました。
ちなみに現在の長慶禅寺も墓地は南側で、
少し高い場所です。
もともと年代が矛盾しているので、
こちらの可能性もなくはない?w
expedition46
「長慶天皇御陵考」⑥
梅宮内親王の墓
「南都留郡瑞穂村字下吉田
西方寺旧趾の南上島に在
(今其處を詳にせず)」
長慶天皇の娘。
西方寺は今までに3回移動していますが、
現在地を合わせた4ヶ所とも小明見だそうです。
この地図では現在の大明見と
下吉田東の境目くらい?
別のお寺でしょうか?
旧趾の南の「上島」なのか「南上島」なのか、
小字名にも見つけられませんでした。
筆者も「詳らかにせず」と
イヤラシイです。
西方寺旧跡(ニッタサマ)
expedition47
「長慶天皇御陵考」⑦
妃初音の墓
「南都留郡福地村新屋小倉山の麓に在」
麓というざっくり過ぎる解説のため、
ざっくり過ぎる調査しかできません。w
とりあえず一番近くはこの稲荷神社みたいです。
一応、行ってみました。w
正解の可能性は限りなく低いので、
参考程度でお願いします。
他にも祠がいくつかありました。
expedition48
「長慶天皇御陵考」⑧
惟成親王の墓
後村上天皇第三皇子。
「南都留郡福地村上吉田諏訪明神下に在
今其處詳ならず」
これもざっくり解説です。
筆者も「詳らかならず」なので仕方ありません。
「密かに諏訪明神の下の森林中に葬る」
北口本宮冨士浅間神社の境内だけでなく、
この辺り一帯が「諏訪の森」だったようです。
範囲が広がり、余計に難しいです。
・北口浅間神社には摂社、末社が
たくさんあり過ぎて分かりません。
・近くの諏訪内山神社にも
祠がいくつかありました。
・諏訪の森自然公園には
祠、石碑等は見つけられませんでした。
結局、全く分からないので
後は妄想です。w
「密かに」なので目立つようには
していないかもしれません。
北口浅間神社には
盛土かな?と思える(無理矢理な妄想)場所も
あったりします。
正解の可能性はほぼないので、
参考にもなりませんね。w
諏訪神社旧跡とされる「御鞍石」
御鞍石や左側の石が陵墓だったり・・・、
しませんかね?。
再び妄想です。
expedition49
「長慶天皇御陵考」⑨
尹良親王の墓
「南都留郡明見村字宇津峯高座山の上に在
小祠あり御中堂と曰ふ」
苦しい投稿が続きます。
地図では高座神社の西です。
そこにあるのが「子持岩」で
安産祈願をするそうです。
祠はありませんが、
他に史跡はない感じです。
昔は祠があったのでしょうか?
神社の南側にもうひとつ。
神社でも何か分からなくなっているそうです。
祠があったように見えますが、残念ながら南です。
expedition50
「長慶天皇御陵考」⑩
國成王の墓
「南都留郡谷村町圓悟院の裏山に在
(説成親王妃政野の墓も同處に在)」
「剃髪して圓悟と曰ふ」
「圓悟院を創建す」
40歳で亡くなり圓悟院の裏山に葬られる。
その2ヶ月後に58歳で亡くなった母親も
國成王の墓に合葬。
まずこの辺りに圓悟院というお寺は
現存しません。
廃寺の名前もいくつか見ましたが、
(見た中には)無かったです。
ただ旧谷村町内に「円通院」ならありました。
しかも山を背にしており、墓地になっているようです。
毎度のことながら年代等は矛盾しますが、
行ってみました。
帰宅後に気付いたのですが、
よく見たら國成王の諡が
「圓通院殿(?)義玄太光大禅師」でした。
圓通院だし!